ばっちりメイクの文章

ばっちりメイクの文章


昼の休憩室で、「この一年、化粧品をまったく買っていない」とあるスタッフが言ったら、同意の声が相次いだ。
「最低限の化粧しかしないから、ほんと化粧品代がかからなくなったね」
「防護服着なきゃならないうちはまともに化粧なんかできないよ。汗でどろどろになるんだから」
「私も最後に口紅塗ったのいつだろうって感じ」
「口紅どころか、顔の下半分はファンデーションも塗ってないよ」
「私なんか上半分も塗ってなくて、眉毛だけ。こないだはそれすら忘れててロッカーで鏡見てびっくりよ。あわてて鉛筆で描いたわ」

私の知るかぎり、看護師は薄化粧の人が多い。夜勤の日はたいていが「ほぼすっぴん+メガネ」だ。忙しくてトイレすら我慢することがあるくらいだから、化粧直しなどもちろんできない。「どうせすぐ崩れるんだから」とあきらめたり、開き直ったりしてしまうのだ。
その傾向はコロナ禍以降、さらに強まった気がする。

そんな中、隣の病棟のA看護師はいまもむかしもフルメイクだ。人前でマスクを外すことがなくなっても手を抜かないのはえらいなあと思うが、マッチ棒が余裕で三本載りそうなマスカラはやっぱりちょっとやりすぎかも。
「顔だちが派手な上にがっつり化粧してるから、コスプレみたいに見えちゃうんだよね」
「あれは目元だけでも相当時間かかるよ」
「それがね、前に『どのくらいかかるんですか』って訊いたら、十分か十五分って言うんだよ。そんなわけないじゃない」
「それじゃあベースメイクも終わらないでしょ。サバ読まなくていいのにねー」

同僚の辛辣なコメントを聞きながら、ふと思った。
A看護師の「十五分以内」がサバを読んでいるのかはわからない。でも、たしかに女性には化粧にかかる時間を少なめに答えてしまうところがあるんじゃないだろうか。
「キレイですね」とは言われたいが、抜かりなく化粧していることは知られたくない。どうせなら素材の良さだと思わせたいし、間違っても「ふうん、それだけ念を入れているわりには……」とは思われたくないもの。



そして、これと同じ心理が働き、私がつい短めに答えたくなるのが「日記書きの所要時間」である。
「どのくらいの時間をかけて書いてるんですか」と訊かれることがときどきあるが、いつも返答に悩む。
なぜって、はずかしいから。気持ちやできごとを飾らない言葉で淡々と綴る“ナチュラルメイク”の文章に対して、私のはああでもないこうでもないと言葉をこねくり回す“ばっちりメイク”。それに「長文しか書けない」という要素が加わるため、びっくりするほど遅筆なのだ。
でも同じ成果なら、「ねじりハチマキして書きました」より「さらっと書き上げました」という顔をしていたほうが文才があるみたいでかっこいいじゃないか……。

しかし、そんなふうに考えるのは私だけではないような気がする。
というのは、これまで何人もの書き手に所要時間を尋ねたことがあるのだけれど、彼らの答えはいつも私の目算の半分以下だからだ。
日記の読み書きというのは料理と似て、食べるのはあっという間だが、作るのにはその何倍もの時間がかかる。私も“料理人”の端くれ、誰かの料理を食べれば、食材の調達や調理にかかった手間暇がどれほどのものであるかだいたいの見当はつく……つもり。
この長さ、このクオリティ、どう少なく見積もっても二、三時間はかかるだろうと思うのに、相手は「ちゃちゃっと書くから一時間かからないよ」などと言う。とても信じられない。

とはいうものの。
そのむかし、「日記書きさんに100の質問」というお題が流行ったことがある。その中に「日記を書くとき何分くらい時間をかけますか」という問いがあるのだが、十五分とか二十分という回答が圧倒的に多かった。
いまも毎日更新だったり、ほかの場所でも書いていたりする人は少なくないから、やっぱりこのあたりが大多数なのかもしれない。
うちは月数回の不定期更新。一話に何日かかろうと(あ、言っちゃった)かまわないのだけれど、時間をかけたからといって良いものが仕上がるとはかぎらないのが切ないところではある(お、これも女性の化粧と同じだ)。


【あとがき】
ナチュラルメイクの文章を読むと書き手の素顔が垣間見えるような、「文章からイメージする書き手と実物がそう違わないんじゃないか」という気がすることがあります。
人も文章も、人前に出るときは“すっぴん”というわけにはいきません。ナチュラルメイクか、フルメイクか。それが個性ですね(「メイク感がないのに完成している」というのが私の理想の文章タイプ)。