正しく読む。

正しく読む。


ふだんからスマホをあまり使わない私であるが、最近、ちょっとした楽しみを見つけた。漫画アプリで漫画を読むことだ。
いま読んでいるのは『ドラゴン桜』。経営破綻状態となった私立龍山高校の運営問題を請け負うことになった弁護士・桜木建二は、学校再建のために落ちこぼれが集まる龍山を超進学校にするという構想を練る。「来春、東大合格者を一名、五年後には百名出す」と宣言して特別進学クラスを新設、その担任となって高校三年生の水野直美と矢島勇介を東大に入れるべく、個性あふれる講師と共に奮闘する------というストーリー。
こういう受験のテクニックというか攻略法を知っているのといないのとではぜんぜん違うだろうなあ……と思いながら、毎日寝る前に一話ずつ読んでいる(無料で読めるのは一日一話だから)。

昨晩読んだのは、国語の授業で「正しく読む力」を養うという話だった。
芥山先生は「読むことくらいできる」と思っている二人にこんな問題を出した。
(みなさんもぜひやってみてください)

(引用元:『ドラゴン桜』43限目「正しい読み方」)


二人はさっそく意見を出し合う。
「ひげを剃ったり料理したり。なんか幸せそうじゃん」
「いい彼女ね。彼のために尽くして」
「でも、終わりはさびしいってことだから」
「彼からあんまり愛されてないんじゃない?」
「彼には他に好きな女がいるんだよ」
というやりとりがあり、失恋の歌だと結論づける。

が、もちろん不正解だ。

(引用元:『ドラゴン桜』43限目「正しい読み方」)


ひげを剃ってもらったり口をふいてもらったり、ということは男性は介護されている状態と推測できる。「呼びかける」は「話しかける」とは違って、一方通行のニュアンスだ。おそらく返事はないのだろう。
そして「毎日がおなじくりかえし」「深いため息」だから、“彼女”がもう長い間この状況にいて、それはこの先もつづいていくことが窺える。
意思の疎通がむずかしい相手の世話を献身的に行い、反応がなくても本を読み、声をかける。その見返りを求めない愛は妻か母親、どちらかのものだろう。でも、最後の「(かつての)彼がいなくてさびしい」から伝わってくるのは妻のやるせなさ。愛し合っていた頃を切なく思い出す姿が浮かんでくる。
でも、高校生にはそのあたりの機微はまだわからないかもしれないなあ。

などと思いながら終わりまで読み、何気なく読者の感想欄を開いたら……驚いた。
さきほど、高校生の回答を“もちろん”をつけて「不正解」と書いたが、その上を行くような“読み”がずらり。
「重度の薬物依存症の末に廃人になった男を、女が介護する話だと思った」
「進行性の治らない病気で入院してる彼の介護を毎日しながら、最後は亡くなってしまうという話かと思った」
これらは「介護」というキーワードがあるから、まあ理解できる。しかし、
「子育てする母親かと思った」
「植物かペットかなんかの世話をしてるのかと。ひげを剃るとかは全部比喩で」
「死んだ男の世話をしつづけるサイコパス女性の話かと思った」
「元気な彼を薬かなにかで人形同然にしてしまった彼女が、魂の抜け殻のような彼をそれでも自分を置いて去って行くよりはと悪魔の決断を実行した結果、やはり孤独の日々に苦しんでいるというのを妄想しました」
さらに別のページには、
「二人の関係は未来の親子。状況は不妊症で、彼=最愛の人との間に生まれるはずの子」
「子どもの世話をしている女性が子どもを送り出し、憩いのひとときに入る瞬間のため息」
「彼女はメイドさんなのかな?」
というものもあった。

そんなふうにも読めるだろうかと心を白紙にして読み直してみたけれど、どれもやっぱりつじつまが合わない。
入力したデータは同じでも、それを処理するコンピュータによって出力されるものはこんなに違ってくるのか。
ぜんぜんわかっていなかったと愕然とする二人に、芥山先生が言う。

「読む」ということは普段無意識で行っているが、実は意外と難しい。表面をサッとなでたような読み方では大変な間違いを犯すこともある。
直接は書かれていない行間をしっかりと読み取る能力…“読む力”は重要です。

(引用元:『ドラゴン桜』43限目「正しい読み方」)


ふと思い立ち、中学生の息子に同じ問題を出してみた。
「えーと、女の人が男の人を介護してる。でも、男の人は病気で料理とか家のことができなくて、女の人が全部一人でしてるから生活に疲れてしまってる……かな」
最後の一文はどういう意味だと思う?
「男の人が入院したか、死んでしまったか」
で、二人の関係は?
「恋人。『彼』と『彼女』って書いてあるから」

行間を読んだ形跡がないその回答を聞いて、ストンと胸に落ちるものがあった。
息子が小学生の頃から、国語のワークの読解問題が遅々として進まないのを見るにつけ、
「なにを悩むことがあるんだろう。そこにずばり答えが書いてあるじゃないの」
と不思議でしかたがなかった。
「文章題は必ず文中に答えがあるんだから、しっかり読んでみなよ」
と言っても、なかなか見つけられない。
私が大人だから問題を簡単に感じられるのかと思っていた。でもそうではなくて、「読む力」があれば子どもでもわかるし、なければ大人でも解けない、そういうことだったんだな。
あの歌詞を読んで当たらずといえども遠からずの回答を導きだせるかどうかも、人生経験の有無ではなく、読む力の差なんだろう。



「正しく読む」とは、書かれてあることを正確に把握すること。
でも大人になると、「正しく読めているか」を意識することはあまりない。たとえ自分の理解と書き手の意図が乖離していても、“答え合わせ”の機会がないから気づかないままだ。

しかし、認知症になった夫を変わらぬ愛情で見つめる妻の心情を詠ったものと思って聴くのと、ご主人の身の回りの世話にうんざりしているメイドの女性をイメージして聴くのとでは、その歌はまったく別物になってしまう。
だから私は、そこにある文章はできるだけ原型に近い形で受け取りたい。その上で、感想や意見を持ちたいと思う。
「ちゃんと要旨を把握できているだろうか」
「行間を正しく読み取れているだろうか」
なんて思案しながらメールやブログは読まないけれど、誰かの文章に不快を感じたときは「書かれてもいないことに勝手にむかついていないか」確かめることにしている。


【あとがき】
ブログを読んでいると「前回の記事にこんなコメントが届きました」と追記があって、書き手が読み手の誤解を解こうと釈明したり反論したりしているのを見かけることがあります。そんなとき、
「たしかにちょっと言葉足らずだったかも」
「この書き方だったらそう受け取られてもしかたないね」
と思うことより、
「どう読んだらそういう解釈になるんだろう」
「どこにもそんなこと書いてないのにな」
と首をかしげることのほうが多いです。
国語の文章題を解くときと違って、ブログは「主観を排除して読もう」とはならないから、うっかりすると先読みや深読みをしてしまう。「正しく読む」ってなかなかむずかしい。



推敲の沼

推敲の沼


その記事に三つ目の誤字を見つけたとき、指が自動的にブラウザの閉じるボタンを押していた。
ネットニュースを読んでいると、ときどきこういうことがある。どこよりも早くアップしようと、タイトなスケジュールで書かれたのだろう。
しかし、文脈から正しい変換を推測しながら読まなくてはならないような記事を信用できるだろうか。報酬をもらうのによくこんな雑な仕事をするなあとびっくりしてしまう。
私はライターや編集者といった肩書きの人がプライベートでやっているブログをいくつか読んでいるが、誤字や脱字を見たことがない。プロは仕事でなくとも自分の「書き言葉」にはプライドを持っているんじゃないだろうか。



私はかれこれ二十年以上、こういう文章をweb上で公開しているけれど、誤字や脱字はほとんどないと思う。
漢字の誤変換もタイピングミスもしないもん、という話ではない。投稿ボタンを押すまでに書いたものをしつこいくらい読むため、間違いに気づかないままアップしてしまうということが起こりにくいのだ。

記事を書く手順は昔から変わらない。
まずワードで下書きをする。この段階では細かいことは気にせず、とにかく最後まで書いてしまい、その日はそこまで。長文のため、書き終えたときにはあたまの中はその内容一色になっている。その状態で推敲しようとしても不具合が目に留まらないから、書いたものは少なくとも一晩は寝かせることにしているのだ。
窓を開けて部屋からタバコの煙を追い出すように、眠っている間にあたまの中の空気を澄ませる。「えーと、昨日なに書いたんだっけ」くらいまで忘れてから下書きを読むと、粗がよく見える。
誤字や脱字を直したり、語順を入れ替えたり、冗長な部分を削ったりして「こんなもんかな」と思えるレベルになったら、フォントを変えて読んでみる。明朝体とゴシック体とでは印象がだいぶ違い、手を入れたくなる箇所が新たに見つかる。
その後、ブログサービスの記事作成画面に文章を移す。プレビューを確認しながら改行や区切り線を加えていき、出来上がりとなる。

そんなわけで、文章の手直しには毎回かなりの時間と労力を費やす。その配分は下書き7の推敲3というところか。
しかしここまでしても、更新したばかりのものを読んで、
「うーん、ここは“である”より“だ”のほうがいいかなあ」
「この部分はやっぱりいらなかったかも」
などと思うのである。しかたなく直す。が、悲しいかな、仕事から帰るとまた気になるところを発見してしまう。まさに底なし沼だ。

こんな書き方は「更新は月数回。時間があるときに書く」というスタンスだからできることだろう。ニュースサイトに掲載する「鮮度が命」の記事と違って、原稿の完成を急ぐ必要がない。
その「締め切りがないこと」に加え、「納得のいくものしか作品リスト(記事一覧)に入れたくない」という潔癖さが私をあきらめの悪い書き手にしている。
でも、“自分にとってのクオリティ”にこだわってきたからこそ、これだけ長くこの趣味がつづいているのだとも思う。

どうしてここで文章を書いているの?と訊かれたら、「書くことが好きだから」と答える人が多いだろう。でも、私が好きなのは書くこと自体ではなく、書いたものを後から読むこと。
あるオフ会で過去記事について話していたら、「更新後に読み返すことはない」という人が多数派で、とても驚いた。
「投稿したら自分の手を離れたという感じがするから、執着がない」
「次書くものに気持ちが向かうから、過去の文章を読もうとは思わない」
と口々に言う。投稿ボタンを押してからがこの趣味の醍醐味、の私とは正反対である。
さすがに十五年も二十年も前のテキストは感想でもいただかないかぎり読み返すことはないが、ここ数年で書いたものはときどき読む。たまった記事はブログの書籍化サービスを使い、本の体裁にもする。この楽しみのために、私はひたすら「自分が読みたいと思うもの」を書いてきた。
(2022年4月21日付「読むために、書く」より抜粋)

どれだけの人に読まれたかではなく、更新した後にも何度でも読み返したくなる文章であるかがクオリティの指標。
娘が友だちと撮ったプリクラのアルバムをしょっちゅう眺めていて、「そんなに自分の顔を見て楽しいのかな」と思うが、自分の書いたものを飽かず読んでいる私のほうがよっぽどナルシストかもしれない。

さて。今日の記事に誤字や脱字があったらカッコ悪すぎるから、投稿ボタンを押す前にもう一回通しで読んでおこうっと。


【あとがき】
毎日更新のサイトだったら「この時間までに仕上げないと」というのがあるけれど、うちには締め切りがない。だから、のんびりやっていたら更新まで一週間かかっちゃったということもあります。
それで不都合はないんだけど、世間で話題になっている事柄を取り上げたときは「タイムリーに更新できなくて、ちょっともったいなかったナ」と思うことがあります(最近では「コーンロウ」とか「昆虫食」とか「おごるおごられ論争」とかね)。