同僚の話である。
毎年かならず元日に年賀状をくれる知人から今年は届かず、体調でも悪いんだろうかと気にしていたら、しばらくしてはがきが届いた。
十二月に長く飼っていた犬を亡くし、新年のあいさつを控えていたことを知らせる内容だった。会ったこともない犬だったが、はがきの写真を見たら知人の犬への愛情が偲ばれ、うるっときたそうだ。
ところで、同僚は「虹の橋へ旅立つ」という表現を今回初めて知ったという。
「○月○日、愛犬△△が虹の橋へ旅立ちました」
という文面を見て、虹の橋ってなんだろうとネットで調べたという。
ペットの死を意味する婉曲的な表現であるが、実は私も二年前に猫を亡くすまで知らなかった。斎場で火葬が終わるのを待っているあいだに手に取った冊子に、「虹の橋」という題名の詩が載っていた。
「生涯を終え、愛する人と別れた動物たちは天国のすぐそばにある“虹の橋”と呼ばれる場所にやってくる、と遠い昔から伝えられています」
で始まる短い物語がその由来である。
……と話したところ、「犬や猫のお葬式があるの!?」と同僚。
彼女は生まれてこのかたペットを飼ったことがないというから、驚くのも無理はない。しかし、ヤフーで「ペット 葬儀」で検索すると二千万件ヒットするし、実際、私の周囲で犬や猫を亡くした人のほとんどが火葬だけでなくお葬式もしている。
私が何度か経験した「立ち会い葬」は、喪服こそ着ないが人のお葬式とほとんど同じだ。祭壇に花を飾り、棺には好きだったおやつやおもちゃを入れる。読経してもらい、お焼香をし、出棺に立ち会い、お骨を拾う。人の場合、
「喉仏がきれいに残ってますね。お釈迦様が座禅を組んでいるように見えるでしょう」
と職員が説明してくれるが、犬や猫のお骨上げでも、
「この一番長いのが大腿骨です」
などと教えてくれる。骨壺に納めた遺骨は家へ持ち帰り、気持ちの整理がついたら庭に埋葬したりお墓やペット霊園に納骨したりするのだ。
子どもの頃、近所のあちこちで番犬が飼われていたが、そんなふうに見送ったという話は聞いたことがない。猫はみな放し飼いであったが、出かけたまま帰らなければ、
「車に轢かれたか猫同士のケンカで死んでしまったんだろう」
「猫は死期を悟ると姿を消すっていうから」
で納得していた。飼い主はもちろん悲しむけれど、当時はペットに対して「供養する」という発想はなかったと思う。
時代が変わり、いま庭先につながれている犬を見かけることはめったにない。猫もそう。「外で見かける=野良猫」であり、サザエさんちのタマのような猫はもういない。
そうして犬や猫を室内で飼うようになると、人とペットの関係性はおのずと変化する。
数年前、猫が初めてわが家にやってきたとき、犬を外飼いしていたときとはスキンシップの量がまったく違うことに衝撃を受けた。視界に入るたびに名を呼び、膝に乗せてテレビを見、一緒に眠る。なでたり抱きしめたりする機会が多いほど親しみを感じ、愛おしさが増すという傾向はまちがいなくあると思う。
人が防犯やネズミ駆除の目的で犬や猫を飼っていた頃、飼い主は彼らの“主人”だったかもしれない。でもいま、多くの人にとってペットは家族の一員だ。
職場で、回復の見込みがないと告げられた患者の家族がどこまで治療をつづけるか悩んだり、患者の死後に「これでよかったのか」「もっとしてあげられることがあったんじゃないか」と涙する姿を見ることがあるけれど、その状況になったらペットの飼い主の苦悩もまったく同じ。
だから、私はペットを亡くして年賀欠礼しようとする人がいても「変わった人」認定はしない。「おめでとう」が言えないほど悲しみが深いのだなと思う。
……とはいえ、喪中はがきを送ろうとしていたら、犬友・猫友だけにしておいたほうがいいと伝えるけれど。
三十年来の親友A子から、続柄の記載のない喪中葉書を受け取りました。両親どちらかの逝去かと思い、A子に電話をすると、死んだのは飼っていた猫でした。 (発言小町 「非常識な喪中葉書を送ってきた親友」 を要約)
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「人の不幸と動物の不幸を同列に扱うなんて」と思う人もたくさんいるのだろう。
しかし、世の中のペットに対する意識が昭和の頃のそれに逆戻りすることはたぶんない。多くの家庭ではこれからもきっと家族やパートナーとしてペットを迎える。
そうしたら、いまは“ありえない”こと------たとえばペットの介護で休暇を取ったり、ペットの不幸で喪に服したり、ペットを同じお墓に入れたり------が常識になる時代がきても不思議ではない。ペットのお葬式だって、四十年前は誰も考えなかったもの。
【あとがき】
道を歩いていて突然ワン!と吠えられ、飛び上がって驚く……ということがまったくなくなりました。
犬が庭先につながれていて、門柱には「猛犬注意」のシール。昭和の風景ですね。
いつか訪れるペットとの別れをテーマにした「虹の橋」。作者不詳のまま全世界に広がったこの詩には、「愛するペットとの別れは永遠ではない」と詠われています。