大人になって夢を追う


このところ、芸能人が大学や大学院に入学したという話題をネットニュースでよく見かける。
高校を卒業して就職する人より進学する人のほうが圧倒的に多いから、鈴木福くんや本田望結さんがどこそこ大学に入学と聞いてもへえと思うくらいだが(芦田愛菜さんはさすがだ)、すっかり大人になってから「学びたいことができた」と大学生や大学院生になる人たちには感心する。
医師でタレントの西川史子さんが「リハビリの先生になって、自分と同じ病気(脳内出血)の方を治療することが目標」と聖マリアンナ医科大学大学院のリハビリテーション科へ入学したのもすごいが、バラエティ番組の企画で早稲田大学など六校を受験した小倉優子さんが唯一合格した女子大に入学というのもとてもいい話だ。「受験しておしまい」でなかったのがすばらしい。
「十代の頃にきちんと勉強しなかったことを後悔している。子どもの勉強を見ていてコンプレックスを感じる」
と受験を決意した理由を語っていたが、本気だったんだなあ。

仕事や育児をしながら「なりたい自分」を目指す人を見るとうれしくなるのはシンパシーを感じるからだろうか。
私も三十代後半で子どもを生んでから看護師になった。ひとり目の出産時、産科病棟が空いておらず小児科病棟に入院、そこで働く人たちを見て「世の中にはこんな仕事があったのか」とショックを受けた。後半の人生でやりたいことを見つけたと思った。
翌年ふたり目を生み、看護学校に入るための受験勉強を始めた私に「これから子どもにいくらでもお金がいるのに、自分にお金かけてる場合じゃないんじゃないの」と忠告してくれる人もあった。でも、私の人生は「お母さん」をするためだけにあるのではない。
一年生のときは朝から夕方まで座学がぎっしり。単位をひとつでも落としたら留年だから、大学時代のように学校をさぼるなんてありえない。夏休みも演習室を使って自主的に技術練習をするくらいだ。二年生になると病院での実習が増えてきて、三年生では十一月の終わりまでほぼ実習である。

看護学生の生活は千時間超を費やす実習を抜きには語れない。
基礎、成人、老年、小児、母性、精神などさまざまな種類があり、学生はそれぞれの病棟で看護師の指導を受けながら履修する。患者をひとり、もしくはふたり受け持たせてもらい、その患者に必要な看護を考え、指導担当看護師のもとで実践するのである。
バイタルサイン測定やおむつ交換、洗髪、寝衣交換といった身体に触れるケアをさせてもらうには使用物品や手順をあたまに叩き込むのはもちろんのこと、学校で学生同士あるいは人形を使ってうんと練習しておかなくてはならない。
命を預かるその場所では、なにをするにも患者にとって最善の方法を採用する。そのため、看護師から「なんのためにそのケアをするの」「そのやり方をするのはどうして」と常に質問される。あいまいな答えだと「ちゃんと勉強してきて」と言われ、なにもさせてもらえないのだ。
同じグループの女の子は「そんなこともわからないのに、患者さんのところに行かないで」と言われた、と泣いていた。どの実習でも心が折れて途中から来られなくなる人がいる。

そんな、気疲れでくたくたになった学生に追い打ちをかけるのが、家に帰ってからの「記録を書く」という作業。
今日行ったことを振り返り、明日の計画を立て、その準備の学習をするのだ。患者情報の漏洩を防ぐためパソコンが使えず、すべて手書きというのもきつい。
帰りの電車の中で「一分もムダにしたくない、この時間が惜しい」と思うが、人目に触れるといけないからノートを開くことはできない。家事をして、子どもを寝かせて、机に向かえるのは二十三時。
「その時間にはもう寝てるわ」と言うクラスメイトもいたが、要領のよしあしというよりどこまでやるかの問題だろう。患者の病態や治療内容、解剖生理、疾患についての理解。成果にこだわれば、調べたり覚えたりすることはいくらでもある。
実習期間中は記録物との闘い。誰もが「二度とやりたくない」と口を揃えるのが看護学校の実習なのだ。

だから昨春、シングルで五人の子どもを育てながら助産師免許を取ったモデルの敦子さんにはびっくりだ。看護学校助産学校の五年間をどうやって乗り切ったんだろう。
「大人になってから夢をもち、ひたすら駆け抜けてようやく再スタートです」
四十三歳で新人助産師。病院で勤務しているというから、すごいとしか言いようがない。
「おそらく最年長の新入生です!」とインスタグラムに投稿していた西川史子さんは五十二歳。やはり今春、筑波大学大学院の博士課程に入学したエド・はるみさんは入学式で「来賓の方ですか」と声をかけられたそうだ。
私も実習先ではしょっちゅう教員と間違われたっけ。引率の先生は同年代か、私より若いのだから無理もない、となんとも思っていなかったのだが、先生方は違ったらしい。あるときから教員のナース服が学生とは別の色に変わった。

僕が大学に行くのだって、最初は「50歳にもなって恥ずかしいかもな」って気持ちがなかったわけじゃないですよ。でも、自分が50歳であることなんて認めないで、やってみればいいんですよ。実際、周りはそんなに気にしてませんから。


大人が夢を追うのは簡単ではない。
自分のために使える時間とお金、仕事や育児と両立させる体力、家族の同意といったいくつものハードルがある。これらをクリアできるとしたら、とても幸運なことだ。
だからもし、
「親子ほども年の離れた人たちとやっていけるかな」
「いい歳して……って思われるんじゃないか」
という気後れが残りひとつのハードルであるなら、なぎ倒して走りだしてほしいなあと思うのだ。
あなたの年齢にあなた以上に注目している人はいない。えいやっと飛び込んでみたら、自意識過剰だったとすぐにわかるよ。


【あとがき】
昨年、桝太一さんが日本テレビを退社して同志社大学の研究員に転身したのも驚きました。サイエンスコミュニケーションという学問分野に以前から関心があり、「四十歳を迎えたことを一つの節目として、今後の人生を使って本格的に取り組んでいこうと決意するに至りました」とのこと。
築いてきたキャリアを守るより、やりたいことをやる人生を選んだんだなあ。もともと好きなアナウンサーでしたが、やっぱりかっこいい。



愛か、罰か。

愛か、罰か。


同僚の話である。
あるファミリーレストランの宅配サービスを利用したら、うちの一品に小さな虫が入っていた。公式サイトの問い合わせフォームから写真を送ったところ、すぐに電話がかかってきた。
商品の回収に行ってもよいかと訊かれ、すでに処分したと伝えると、それでも謝罪のために伺わせてほしいと言う。けっこうですと断っても、「どうか直接お詫びを」とあちらも譲らない。困った彼女はなかば強引に電話を切ったそうだ。
「企業はびくびくしてるんだよ。いまどきはなんでもかんでもSNSにあげるから。『こんなのが入ってましたー』って画像が拡散されたときのために、過剰なほど誠意を見せるんだろうね」

たしかに、ちょっとめずらしいことが起こると「いいネタ見っけ」とばかりにツイッターやインスタに投稿する人がいる。
先日、ある県立高校の男子生徒が髪形を理由に卒業生用の席に座ることを認められなかったというニュースがあったが、
「卒業式の後、その男子高校生とすれ違った」
「うちの息子の高校の話で、私もその卒業式に出席していました」
といったツイートを見かけたっけ。
世間で話題になっている出来事とほんのちょっとでも接点を持ったら、誰かに話さずにいられないのだろう。



それはそうと、このコーンロウの一件はとてももやもやした。

テレビで見かける人たちが、
「髪型をあれこれ言うことに何か意味があると思っている頭の悪い教師たちが日本中にいると思うと残念でたまらない」(茂木健一郎さん)
「異文化の伝統に敬意を払うことなく、問答無用に排除する。そんな教育を受けて社会に巣立っていく子どもたちが不憫でなりません」(乙武洋匡さん)
「これただの差別やで。そんなん気付かへんのん教師としてやばいで」(千原せいじさん)
などとSNSで怒ったり嘆いたりしていたが、私とあまりに感覚が違っているので驚いた。
これ、本気で言っているんだろうか。男子生徒がほかの卒業生と同席できなかったのは学校のせいなのか。

報道によると、学校は式の前日までに三回にわたり「髪が長いから切ってくるように」と指導していたという。
同じことを三回も言わせるということは、「従わない」という意思表示だとみなされてもしかたがない。それでも学校は彼が晴れの門出をきちんと迎えられるように、「このままでは式に出られないから、かならず切ってこいよ」と伝えつづけたのだ。
兵庫県教育委員会が会見で、
「(生徒は)『切ってきます』と言った。みんなが気持ちよく卒業しようと、その約束が本人が守ると言いながら守られなかった。(学校は)約束を守ってもらえなかったというところの戸惑い、驚き、その部分も大きかったんですかね」
と言っていたが、まさにそうだったんだろう。当日の彼を見て、先生たちは「どうして……?」と虚脱感に包まれたのではないだろうか。

学校の規定の中には「なんの意味があるんだ?」と不満を感じるものがあるかもしれない。しかし、その一員であるうちは理不尽に思われるルールであっても守らなくてはならない。その場所を選んだのは自分なのだ、それが落とし前というもの。
もしくはルールの見直しを求めて学校にかけ合うか、そんな“ブラック”な校則のないところに行くか。それをしないで、「でも納得がいかないから従わない」を貫くのであれば、なんらかの不利益があるかもしれないという心構えはしておかなくてはならない。

「先生、実はこれこれの理由で明日の卒業式はこういう髪型で臨みたいのですが、どうでしょうか」
とどうして相談しなかったのか。三年間通って、「髪が目や耳にかかっていなければどんな髪型でもオッケー」でないことはわかっていたはずなのに。
「父のルーツであり、黒人としての文化なのに」
と彼は言う。しかし、その髪型にそういう背景があることをどれだけの人が知っているだろう。私の同僚はニュースを見ながら、
「これがコーンロウ?派手な頭だねー」
「レゲエとかストリートダンスの人の髪型だよね」
と言っていたが、先生やほかの生徒の保護者の中にも同じ感想を持つ人がいるだろう。
自分にとって大切なものを他者に尊重してほしいと思うなら、踏むべき手順がある。その労力を惜しんで、当日「特別な日」「ルーツ」を持ち出してもそりゃあ無理だ。
彼の親は美容院代を渡す前に、
「先生から許可を得たのか?特別な配慮をお願いするんだから、事前に相談するのは当たり前だぞ」
と教えるべきだった。

上にリンクを張ったネットニュースの記事は、
「大切な卒業式をみんなと出席させる、そんな人情は高校にはなかったのだろうか」
と結んでいる。しかし、それは人情なのだろうか。
学校だって目をつぶって彼をふつうに出席させたほうが簡単だった。この件がSNSで拡散される可能性を考えて、“身の安全”を図ることもできたのだ。
でもそうしなかったのは、社会に出たらこんなやり方は通用しないことを彼に教えようとしたからではないだろうか。
「たかが髪型のことで、大切な式にみなと一緒に出席させてやらないなんて」
「違反と知っていてその頭で来たんだから、式に出られないのは当然」
彼をかばう人も学校をかばう人も、それをペナルティ(罰)と捉えている。でも、私はそうは思わない。
高校を卒業したら、もう成人。要求をこんなふうに通すことを覚えたらこの生徒のためにならないと、心を鬼にしての措置だったんじゃないか。

対応が不適切だったというなら、どうすればよかったのだろう。
生徒が登校してから式の開始まで一時間かそこいら。コーンロウはワックスを塗ってからきつく細かく編み込んでいくそうだから、その髪ではだめだからといって、その場でほどいて耳にかかる髪をピンで留めて……ということもできない。現場は相当混乱したに違いない。
「二階席に座らせ、名前を呼ばれても返事をさせなかった」についても、生徒、保護者が一斉に振り返り、「あの子、なんであんなところにいるの?」と注目を浴びることになるのをしのびなく思ったからではないのだろうか。

「友人との三年間を締めくくる思い出づくりができなかった」
それは学校のせいじゃない。
自分にとって大切な日はみなにとってもそう。卒業式がこんな形で日本中に知られることとなり、後味の悪いものになったことを残念に思う生徒もいることをよく考えなければならない。
いまは母校の名を耳にするのも苦痛かもしれない。でも、彼の中でこの経験が苦いだけで終わらないことを願う。


【あとがき】
少し前に、大阪の清風高校の一部の生徒が「前髪は眉毛にかからない長さ」で「髪の裾と耳もと全体を刈り上げる」通称“清風カット”を義務づけられる(守れないと退学)のは人権侵害にあたるとして、校則の見直しを求めて弁護士会に人権救済を申し立てたというニュースがありましたね。
ここは私立の高校で、仏教を中心とした宗教教育を行うという特色があるそう。「戒律を守るという精神から校則で髪形を決めている」とのことで、生徒はそれをわかって入学したわけだから、後から人権がどうのと言うのは違うんじゃないかなあ。
……とは思いますが、不満があっても三年間やり過ごそうとする人がほとんどの中で、校則を変えようとする行動力はすごい!